「・・・ぁ〜」
「うっす。って、なにいきなり死んでるんだ」
2学期初日。
佐伯が登校した時にはすでに春日は机についていた。
座ってはいるのだが、上半身を机に突っ伏しており、完全に無気力状態だ。
(うあ。目がいっちゃってる)
「あ〜。おはよ〜」
「大丈夫か?」
「大丈夫やねん」
そうは言っているが動作に力がない。
軟体動物のような動きだ。
「あ〜・・・黒いなぁ」
「ん?あぁ。部活だったからな」
「野球やったんやな。ワールドカップいけたん?」
「は?いや、ワールドカップじゃなくて甲子園な。残念ながら地区大会決勝で負けてダメだったよ」
佐伯は荷物を置いて椅子に座る。
クラスの半分はだらけているのが目に映る。
「あ〜。そや。あんな、野球教えてくれへん?」
顔だけを佐伯の方に向けて春日が言う。
その目はまだ死んだ魚のような目だが、なんとか意識はあるらしい。
「かまわないけど。どうした?」
「体育でソフトボールがあるねんけどな、私、トロいから」
「ソフトボールか。じゃあ、とりあえずキャッチボールからはじめるか」
放課後。
「さ、グラウンド行くぞ」
「へ?」
カバンを持って帰ろうとする春日が佐伯の方を向く。
「へって。お前が言ったんだろ、野球教えろって」
「今日からなん?」
「部活休みだからな」
「とりあえずボール投げてみろ」
春日が手にしているのは、やわらかいゴムボール。
「おっしゃいくで〜」
ボールを投げる春日。
春日と佐伯の丁度中間くらいにボールが落ちる。
「これは・・・ちゃうねん」
「ボールの投げ方から教えるか」
・・・・・・
「ちゃうねん」
再度投げたボールは先ほどよりは飛んだが、それでもまだ佐伯の位置には届かない。
「ん〜・・・何がおかしいんだろうか。ちょっとすまんな」
「ひやっ」
佐伯が春日の二の腕を掴んでみる。
「単に非力なだけか?これじゃあ、ソフトボールは重いんじゃないか?」
「む、無理なん?」
春日の顔が少しだけ赤くなっている。
「無理ってわけじゃないけどな。バッティングもきついだろうし」
佐伯が顎に手を当てて考える。
「下手投げで投げてみるか」
「下手投げ?」
「こんな感じだ」
佐伯はアンダースローの構えでゆっくりとボールを投げる。
ボールは弧を描き地面へと落ちた。
「おぉ。ほなら、やってみるで」
春日が見よう見まねでボールを投げる。
今度は何とか佐伯の立っていた場所まで届く。
「まぁ、試合で使えるかどうかわかんないけど、いいだろう。今度はキャッチの練習もあわせてやるぞ」
「ふぅ。いい時間だな」
「もうこんな時間や。今日はおおきにな」
夕日が徐々に街に隠れ始めている。
「なに。いいってことよ。俺も部活休みで暇だったしな」
野球部の部室に置いておいた鞄を持つ。
密室の部室。
二人の男女。
「あ、あんな。佐伯君」
顔を赤らめる春日。
「あ。な、なんだ?」
「私な・・・私な」
うつむいたまま佐伯の目の前に歩いてくる春日。
彼女の髪の甘い匂いが佐伯の鼻腔に感じられる。
顔を上げた春日の顔が真っ赤に染まる。
「春日」
二人は目を瞑る。
そして、徐々にその顔が近づき。
「お〜っす。大阪〜!!特訓はうまくいったか〜〜」
突然、勢いよくドアが開いて滝野が部室に入ってくる。
『!?』
「お?お?お?ひょっとして。おじゃまだったかにゃ〜」
滝野が口に手を当て目を細めて笑う。
「ちがうちがう。か、春日が目にゴミが入ったって言うから。な」
「そ、そうやねん。とってもらってたんよ」
「ふ〜ん。ま、そういうことにしておくか」
3人は部室を出る。
春日が後ろを歩く佐伯に近づいてきて、耳元でつぶやく。
「あ、あんな。さっきのは・・・かんにんな・・・もうせぇへんから・・・」
それだけを言うと春日は滝野の隣に戻ってしまう。
(・・・それって・・・実は脈無し?)
「おっす。何やってんだ?」
「スタメンのオーダー決め」
「あぁ、お前キャプテンになったんだっけか」
佐伯が机に置いた紙を前にうなっている。
長谷川が覗き込むと、そこには野球部のメンバーの名前とポジションなどが書かれていた。
「打撃を取れば守備に穴が空くし、守備重視なら打撃力に難があるんだよなぁ」
「ま、がんばれや」
部外者である長谷川は佐伯の元を離れる。
佐伯の携帯が震える。
「はい・・・・・・なにーーーー!?」
佐伯が急に立ち上がって声を張り上げる。
「松戸と円谷が事故!?なんで・・・あんの暴走バカ。で、容態は?・・・そうか。わかった」
電話を置き頭を抱える。
「骨折か。秋の大会に間に合わないな。ヤバイ。本格的にヤバイ」
机に置かれた紙から松戸と円谷の文字を消す。
二人はかなりの実力者ゆえに、その穴はかなり大きい。
「1年の木戸・・・は、ダメだな。雪を一塁手にコンバートするか」
一人ブツブツとつぶやく。
声にかなり棘がある。気が荒立っていることは確かだ。
「おはよ〜・・・どないしたん?」
隣の席の春日が声をかける。
「ちょっとな」
佐伯は生返事だけで、顔はずっと紙の方に向けられたままだ。
春日が顔を微かに赤らめて、鞄の中から一枚の紙切れを取り出す。
「あ。そや、あんな。次の土曜に映画に行かへんか?」
「後にしてくれ。忙しい」
「そ、そか。かんにんな」
手に持ったチケットを鞄にしまい、ゆっくりと席につく。
「………佐伯君、まだ忙しいん?」
春日の質問に沈黙で答える佐伯。
いや、声が聞こえていない可能性もある。
「そやな。忙しいんやな。うん」
「大阪!!今日は寝坊しなかったんだな」
急に滝野が春日の側にやってきてその背を叩く。
「なんやの〜・・・私、最近寝坊しとらんやんか」
「そうか〜?ま、どっちでも私は構わないけどな、あははははは」
「笑う門には福来るや。佐伯君も根を詰めすぎたらあかんで。あはははは」
春日と滝野がケラケラと笑う。
「・・・うるさい」
低く怒りのこもった声。
佐伯が滝野と春日を睨んでいる。
「お?なんだなんだ?不機嫌モードか?」
佐伯が立ち上がる。
勢いよく立ち上がったために椅子が大きな音をたてて倒れる。
静まり返る教室。
「や、やる気か?そ、それに・・・大阪は佐伯が悩みがあるからと思っていったんだぞ」
「そんなの、ただの迷惑だ」
「迷惑って、ちょっと言いすぎだろ!」
滝野が佐伯の襟首に掴みかかる。
「大阪はな、お前のことを」
「ともちゃん、えぇねん。うるさくしてかんにんな、佐伯君」
「けど」
滝野は不満そうな顔だが春日が黙って座ったため、それ以上は何も言わなかった。
相変わらずの不機嫌顔で椅子を戻して座る佐伯。
滝野も水原に連れられて自分の席に戻っていった。
「佐伯」
長谷川の呼びかけに答えない。
「無視はするな」
「・・・なんだ」
昼休み、未だに佐伯はチームのオーダーを組んでいる。
「朝のことだ。あれはお前が悪いぞ」
「で」
「でって。だから春日に謝るとか」
佐伯がもっていたペンを置き、長谷川の方を見る。
「なんで俺が謝らなきゃならないんだ」
「だから」
「俺が悪いからか?ふん、機嫌の悪い俺の横で騒いだヤツラのほうが悪いに決まってるだろ」
「おいおい。それは逆恨みだろ。それにいいのか?春日・・・結構ショックだったみたいだぞ」
春日のことを言われて黙り込む。
「別に。もう、どうでもいい」
「は!?なんだよいきなり」
「今は逆に春日のあのノホホンとした顔が恨めしく見えるくらいだよ」
「・・・そうかよ。んじゃ、俺が春日にアプローチしていいってことだよな?」
「どうぞ。てか、いちいち俺に聞くな」
長谷川が振り返る。
彼らのすぐ側には、春日が立っていた。
数分前屋上。
「にしても佐伯も心が狭いよな〜」
「あ、でも。朝はともちゃんたちも悪かったと思います」
「なんでだよ。ちよ助はあんなヤツの味方なのか〜〜!?」
いつものように6人で食事を取る春日たち。
「キャプテンで大変な上に、チームメイトが事故だろ?そりゃ誰でも不機嫌になるだろ」
「あぁ。そういや、野球部の顧問も変わったんだろ?確か古木だったかな。なんかすげー嫌な先生らしいぜ」
「そうやったんか・・・悪いことしてもうたんやな・・・もう一度謝らな」
「大阪いいって、どうせ自分のことしか考えてない頑固親父なんだから」
滝野はそう言うが、春日の顔は悲しみであふれている。
顔色もいつにも増して青白くみえた。
「私、やっぱり謝ってくるわ」
立ち上がり教室に向かう春日。
「ちゃんと謝らな」
教室に入ると、佐伯はしかめっ面で長谷川を睨んでいる。
まだ気が立っているせいで声も大きく、春日の耳に佐伯の声が入ってきた。
「今は逆に春日のあのノホホンとした顔が恨めしく見えるくらいだよ」
「・・・そうかよ。んじゃ、俺が春日にアプローチしていいってことだよな?」
「どうぞ。てか、いちいち俺に聞くな」
「春日」
佐伯も春日の存在に気づく。
「あ、あんな・・・朝は・・・ほんまにかんにんな・・・あ、ごめんなさいやった」
春日の頬を涙が伝う。
「もう。なるべく話かけへんようにするわ・・・今までごめんな」
佐伯に背を向けると廊下に向かって走り出す。
「佐伯、追えよ」
「いい。いったろ、どうでもいいって」
「佐伯!!お前、いつからそんなに腑抜けになったんだ。そこまで部活が大事なのかよ!!」
長谷川が佐伯の襟首を掴み締める。
「何とか言えよ!」
「お前こそ追いかければいいだろ」
「くそっ」
長谷川は佐伯を離して、背を向ける。
そして、春日を追って廊下へと出て行った。
「こぼれた水は・・・もう戻らない・・・か」
佐伯と春日が話をしなくなって数ヶ月。
冬休みを間近に控えた日。
「さみぃ〜」
その日、春日は長谷川と一緒に下校していた。
「そやなぁ。長谷川君は寒いの嫌いなんか?」
「あんまり好きじゃないな」
二人は付き合ってはいない。
しかし、最近ではこうしてたまに一緒に登下校をするような仲になっていた。
傍目には付き合っているようにしか見えないのだが、二人の中ではそれは違うものだった。
「今日も見に行くのか?」
「うん」
「風邪引くなよ」
「うん」
公園の前で春日と長谷川は別れる。
そして、春日はゆっくりと音をたてないように公園の中心へと向かう。
そこでは、佐伯が素振りをしていた。
部活の休みの日は必ずここで素振りをしている。
そして、それを見つからないように遠くから見るのが春日の日課だった。
「佐伯君」
佐伯は一心不乱にバットを振る。
秋大会ではチームが安定せずに惨敗。
佐伯自身も不調で打撃も守備もボロボロだった。
「へ、へ、へ・・・へーちょ」
小さなくしゃみ。
それと同時に、春日は木の陰に隠れる。
「き、気づかれたやろうか」
木の陰に隠れたために、佐伯の方を見ることが出来ない。
だが、彼女のほうに近づいてくる気配は全くしなかった。
春日がゆっくりと木の陰から顔を出して、先ほどまで佐伯の立っていた方を覗く。
「あれ?」
だが、そこには誰も居ない。
「帰ってもうたん?」
誰も居ない公園。
寂しく悲しい気持ちが彼女の胸にこみ上げてくる。
佐伯の居た場所をもう一度見る。
すると、先ほどまで彼が鞄を置いていたベンチの上に赤い何かが置かれていた。
「なんやろ。忘れ物かな?」
近づく春日。
ベンチの上には赤いマフラーと一枚の紙。
『風邪引くなよ』
殴り書きのように乱暴にかかれたその文字は、まぎれもない佐伯の字だった。
「佐伯君」
春日がマフラーと置き手紙を手に取り、胸に抱く。
ほんのりとしたあたたかみが彼女を包みこんだ。